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ゲームを作ることと、プログラムを書くことは全然違う。当たり前のようで当たり前でない話

note / 3/18/2026

💬 OpinionIdeas & Deep Analysis

Key Points

  • ゲーム開発は創造性と設計思考が中心で、単なるコードの最適化だけでは成立しない点を強調している。
  • プロトタイピングとプレイテストの反復が、コードの整備より先に体験の質を左右することが多い。
  • アート、音、ストーリーテリングなど、技術以外の要素がゲーム体験の本質を決める役割を担う。
  • エンジニアとデザイナーを含む複数部門の協働が不可欠で、ワークフローの統合が難易度を左右する。
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ゲームを作ることと、プログラムを書くことは全然違う。当たり前のようで当たり前でない話

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shi3z

バイブコーディングでゲームを作ろうという人に朗報。

このサイトでは、ゲームで使えるようなキャラクターをアニメーション付きで生成することができる。ここで生成した画像を使ってゲームを作れば、簡単にアクションゲームができるというわけ。

ちなみに、nanobanana2やGrokで似たようなことをやるプロンプトに挑戦する人もいる。

Creating this kind of pixel game asset animation is actually very simple.

First, use niji 7 to generate a pixel-art game character:
pixel art of an anime girl knight in blue and white armor, with pink hair, holding a sword and shield, in the style of pixel art. --ar 1:1 --niji 7… pic.twitter.com/1TDdyiSZkS

— underwood (@underwoodxie96) March 14, 2026

それで忘れていたのだが、そもそも「ゲームを作る」ということと「プログラムを書く」ということは全く無関係なことなのである。

この点を間違えると、「プログラムが書けるんだからゲーム作れるでしょ」と誤解されたり、「ゲーム作れるんだからプログラム書けるんでしょ」と誤解されたりする可能性がある。

大昔、それこそ僕がまだ少年だった頃は、プログラムを書ける人がゲームを作った方が圧倒的に面白いゲームを作ることができた。それはコンピュータの能力が非力なため、ただキャラクターを出して動かすだけでも相当複雑なことを考えなければならなかったからだ。

逆に言えば、すごいゲームを作れるということはすごいプログラムが書けることとほとんどイコールだった。

しかし、実際には、プログラムが書けてもゲームが書けるようにはならない。その二つは別のことだからだ。

これは、紙とペンを使って履歴書を書くのと、小説を書くのが根本的に違うということと同じである。

ところがプログラミング教育の文脈では、長らくゲームとプログラムがセットだった。ゲームのためにプログラミングを勉強して、ゲームのためにプログラミングをやった。

ところが、これはピアノで言えば、バイエルをやっているだけであって、バイエルを百万回やっても作曲ができるようになるわけではないのと同じように、プログラミングの教科書をいくら読んでもゲームが作れるようになるわけではない。

20歳の頃、スカウトされてゲーム専門学校の講師になった。この頃の教え子とは、今も友達として時々会っている。だが若すぎた当時はそんなことも気がつかずに自然にプログラミングとゲーム開発を教えていたのだが、よく考えるとその教え方では誰もゲームを作れるようにならないのは当然だった。

というのは、「ゲーム」をどのレベルで作るか、ということを当時の自分(若すぎた自分)は全く区別していなかったのだ。

例えば、プログラミングなら、OSレベルから作るか、言語レベルから作るか、フレームワークレベルから作るか、ゲームエンジンのスクリプトだけ作るかといったように、段階的に簡易化することができる。

ところが「ゲーム」そのものは、どこまでがOSに当たる部分で、どこからがスクリプトに当たる部分なのか分けるのが難しい。

色々な素人が同人ゲームを発表する「ゲームマーケット」を覗いてみると、置かれているゲームはほとんど表層的な部分が違うだけで、ゲームの「OS」というか、根幹に当たる部分は他のゲームをほとんど全部流用していたりする。

例えば、ゲームにおけるOSとはどんなものかというと、トランプやサイコロに当たる。

トランプやサイコロはルール次第で色々なゲームに変化することができる万能のゲームOSである。

トランプというOSにおける「ゲーム開発」とは、「ババ抜き」や「大富豪」のようなルールを発明するということになる。

これがどれほど途方もないことなのか、想像してみるとわかるが、おそらく千年以上の歴史を持っていながら、トランプを使ったゲームは、よく知られているもので数十から数百種類が限界だろう。

OSレベルからトランプを作り直そうとすると、それは花札とかタロットカードになる。つまり、書かれている絵柄も違えば、絵柄に込められた意味も違うというわけだ。

マジック・ザ・ギャザリング(MTG)や遊戯王のようなトレーディングカードゲームは、そういう意味ではトランプ、花札以来の大発明なのである。

アナログゲーム開発が難しい理由は、遊ぶ人全員がルールを知っている必要があるということだ。

ということは、あまり複雑なルールのゲームは作ることが難しくなる。トレーディングカードゲームは、カード自体がルールを変容させるため、遊びながらルールを覚えていくことができるが、それでも最初は非常にシンプルな導入にしておかないと、誰も遊べなくなってしまう。

そして、ここが肝心なところなのだが、たとえトランプのようなゲームを発明したとしても、そこから対価を得るのはもっと難しいということだ。

なぜなら、アナログゲームに著作権はあっても、遊び方にパテントは主張できないからである。これは任天堂の故・山内溥社長がテレビのインタビューで語っていた有名な話だ。

ということは、職業としてアナログゲームを設計して生計を立てるのはとても難しいということになる。最近は脱出ゲームのクリエイターが活躍していて高収入を得ているなんていう話も聞くが、それは漫画家と同じようにごく一部のヒット作家がすごいのであって、気軽に「よし、俺も脱出ゲームクリエイターを目指そう」というわけにはいかない。

とすると、プログラミング可能なのは、OSレベルというよりも、プログラミング言語レベル、またはフレームワークレベルのゲームということになる。

縦スクロールシューティングゲームが理想的なのは、そこにゲームのイディオムが散りばめやすく、テンポをコントロールしやすいからだ。横スクロールアクションゲームになると少し複雑になって、例えばファイナルファイト方式とかマリオ方式とかソニック方式とか、ある程度は固まったイディオムに頼ることになる。

次の問題は、そもそもマリオは十分面白く、ソニックも十分面白いことだ。ここに新しいサムシングニュー横スクロールアクションが必要とされる理由がない。

面白い上に、今も遊べてしまうのである。人類は膨大な過去のゲーム資産を持っていて、最新のゲーム機上で自由に過去の名作が遊べてしまう。

ということは、これから新しいゲームを作る人は、過去のすべての名作ゲームと戦わなければならないのである。

なぜ90年代後半のゲーム業界が全力で3D化を指向したかといえば、歴史を振り返ってみると、2Dのゲームに限界が来ていたからだと思われる。

2Dゲームの文法に則る限り、「どこかでみたような」ゲームしか作れない。しかし、3Dになれば、文字通り「次元の違う」ゲーム体験を作ることができる。そこで最初は、2Dゲームを3D化するという実験から始まり、少しずつ3Dネイティブなゲームに変化していった。

しかしそれも25年続くと、出来上がる3D体験はどれも似たり寄ったりになる。

新しい技術が登場すると、その技術を使ったゲームを作れば、新しいゲーム体験を作ることができる。3Dの次にあったのはVRとモバイルだった。

VRゲームには大きな期待を寄せていたのだが、ゲーム性がVRである必然性があるものがほとんどなくて少し失速しているイメージだ。

モバイルゲームが「ゲーム」の主流になるという主張を1999年にしていた我々は、笑い者だった。だが結果的に、世の中はそうなった。むしろコンソールゲームを遊ぶヘビーユーザーの方が「変わり者」なのだ。しかも「変わり者」の比率は、昔からそんなに変わってない。

そうして新しい技術が単なるポリゴン数の向上とピクセルフィルレートの上昇というつまらないものになっていった結果、ゲーム開発は停滞し、マンネリ化していったのだ。

しかし我々はここで思い出さなければならない。
今我々の目の前には、とてつもない新技術がある。AIだ。

しかしAIを使ったゲームを真面目に作っている人にまだ出会ったことがない。その理由は先日も書いたが、予算の問題と、市場規模の問題があるからだ。

だが思い出して欲しい。最初のコンピュータゲーム、Spacewar!は予算を理由に作られたのか?儲かるから作られたのか?Spacewar!を作ったスティーブ・ラッセルはゲーム開発で一円もお金をもらってない。ゲーム業界は彼を表彰し、感謝すべきなのに。

Spacewar!をほぼ勝手にパクったAtariのComputer Spaceは商業的には失敗したが、Pong!で盛り返した。Pong!だって最初から数億ドルを生み出したわけじゃない。

Pong!を生み出したAtariが産んだ最大の資産は何か?それはスティーブ・ジョブズだ。つまりゲームとは、彼のような人物を惹きつけ、エンジニアをロックスターに変える力があったのだ。

とはいえ「AIを使ったゲーム」ってなんだよ。

「どこでもいっしょ」は人工無能を使った傑作ゲームだった。
会話するゲームみたいなのは面白いのかもしれない。
ミステリーのトリックをAIが自分で考えるのも面白いかもしれない。しかしそれらは本当に「面白い」のだろうか。

ここ三年くらい、映画の脚本を書いている。何度も書き直してようやく完成しつつあるが、最初はAIに書かせようと思っていた。途中で挫折した時はAIに書かせた。しかしどうも面白くない。結局全部書き直せるようになってようやく面白い脚本になるのである。

この「面白さ」とはどこから発生しているか。
映画制作というのは極めてプライベートで危険なものだということをこの三年間で思い知った。まだ完成してもいないのに。

つまりAIは、「ありそうなこと」「どこかで聞いたようなこと」は考え出せても、「そう来たか」というある種のAHA体験があるようなものは考えてくれない。

では、どういうことでAHA体験を設計するのかというと、実は自分の個人的な経験に他ならない。

スピルバーグの幼少期を自ら描いた映画「フェイブルマンズ」を見るとショッキングなほど彼の人生が彼の映画に反映されていることがわかる。

幼少期に辛い経験や楽しい経験をたくさんしたからこそ、彼の映画は人を熱狂させるのだということが痛いほどわかる。

同時に痛感するのは、「俺はこんなに辛い人生じゃなかったか」という絶望だ。

実は面白い物語を作る人には共通点があって、それがだいたい「酷い目にあった人」なのである。

ところがゲーム作りにおいて、この法則は当てはまらない。
酷い目にあった人でなくても、ゲームを面白くすることはできてしまう。
だからゲーム開発は、サラリーマンの仕事なのである。

どちらかというと、酷い目にあった人よりも、酷い目に遭わせる人の方がゲーム開発に向いていると思う。

例えば「桃太郎電鉄」は、理不尽なほどゲーム展開が変化する。このゲームはその変化を楽しむものであり、誰かが酷い目に遭うのを見て笑ったり、他の人に貧乏神を押し付けて安堵したりするというゲーム性になっている。

こういうものは、実は幸せな人しか作れない。実生活が充実してるから、ゲームという空想の世界では残酷なことができるし、またそれを楽しめる。

僕も長い人生の中で、会社がピンチになったりしたことが何度もあるが、そういう時に経済もののドラマを見たり、経済ニュースを聞いたりするとウンザリしてテレビを消してしまうようになった。

先日、「桃太郎電鉄」を多分20年ぶりくらいにプレイしたのだが、しばらくこういう経済ゲームは気分が悪くなって遊ぶことができなくなっていたことに気がついた。たとえそれが空想のことであっても、赤字や損失補填で大金が出ていくというのを笑って楽しむことはできなかったからである。

仮に僕に従軍経験があって、本当に戦闘機のパイロットになっていたら、縦スクロールシューティングゲームを作ることも楽しむことも多分できなかっただろう。

「空中戦とはこういうものではない」という意識、戦闘中に友人を失った悲しみ、自分の手で人を殺した罪悪感などがないまぜになって、エンターテインメントとして処理できないはずだ。

ある意味で、ゲームというのは、子供の空想遊びの延長線上にある。実際にそれを経験したことよりも、「きっとこうであるのだろう」という空想が根本にある。

ゲームのストーリーは、基本的に陳腐であればあるほど良い。ストーリーが複雑すぎると、プレイ中に自分が何をしているのかわからなくなってしまうからだ。どんでん返し、のような展開も、一回か二回あれば十分だ。

オードリー・ヘプバーンの映画「シャレード」的な猫の目のように展開が変化するRPGがあったとしたら、自分が何をしているのかわからなくなってしまう。映画は強制的に話が展開するので成立するが、ゲームは、特にRPGは数十時間を通じて一貫したストーリーをプレイしなければならないため、物語の変化は緩やかであることがほとんどだ。

もちろんノベルゲームのようにストーリーを追うことが中心のゲームの場合は例外がある。ノベルゲームを僕は作ったことがないので、その辺りはこの本が参考になる。

先日、自分の昔の本2冊と最近の本1冊を組み合わせて一冊の本をAIに再構成させてみたものを読み返してみて、例えば実時間を使って貿易をするネットワークゲーム「海運ジェネレーション」にエージェンティックAIが入ったらどうなるだろうと考えたら、妄想が止まらなくなった。

「海運ジェネレーション」は、中世ヨーロッパ風の世界を舞台に、貿易商として様々な港を行き来して貿易品を運んで財を成していくゲームである。

このゲームに与えられた物語はなく、毎日発行される「新聞」によって世界を構成する物語が断片的に語られる。

この世界では、単に交易品を買うだけではなく、それぞれの港に文化があり、人が生活しており、何かを生産したり、何かが消費されたりする。その製品と消費の不均衡があるから、ゲームが有機的に動く。

もしも今の時代に作り直すなら、例えばエージェンティックAIにペルソナとしてそれぞれの街の人の声を代弁させたり、ユーザーとのインタラクションから街の環境を変化させたりすることができる。

ちょうど最近、高額買収で話題になったMirofishのように、架空のペルソナが世論を自動的に形成するような世界だ

Mirofish English

ユーザーも自分で全てを操作する必要はなく、自分のエージェンティックAI、例えば副長とか航海士とかそういう役回りのキャラクターに「とにかく今は金を稼げ」と命令したり、「なんか北の国に隠された財宝があるらしい。それを奪いに行こう」と命令したりすれば後は勝手にやってくれたりするようにもできる。

当時は予算と時間が足りなくて作り込むことができなかったが、船員を雇って船員同士が喧嘩したり仲良くなったりするのを眺めるというような遊びもできるだろう。よく考えると、これは一種の経営シミュレーションゲームだ。

「新聞」そのものもAIに書かせることができる。実際、「海運ジェネレーション」は当初は「新聞」を毎日僕が自分で書いていた。それはインターネット上のコンテンツというものは、何より毎日更新されることが重要だからだ。

だが、今こういうゲームを商業ベースで作ろうとすると、投資家からどうせ必ず「時短アイテムを売れ」とか「ガチャで船員を引かせて儲けろ」と言われて結局やりたいことができなくなる。SSRの船員がいたら必ず勝てるゲームなんて面白くもなんともない。それは僕の単なる価値観に過ぎないが、周囲にゲームのガチャに文字通り命をかけてる女性がたくさんいるのを見ているから、尚のこと思う。

もちろん、そういう人たちはガチャガチャのゲームがなかったとしても他のことにお金を使っているだろうから、ガチャガチャが悪いとは思わない。けれども、作り込まれたグラフィックスをほとんど見ないで画面を連打してお金を投入し続けるのを毎月見ていると、「もっとマシな遊びはないのか」と思ってしまうのは僕がゲームを作る側だからだろう。

ネットワークゲームとエージェンティックAIの相性は良さそうだ。
しかしネットワークゲームは、作るのにも遊ぶのにもお金と時間がかかる。
それを作るのは少し後回しにするとしよう。

なぜなら僕が今作りたいのは、自分が子供の頃、中学生くらいの頃にゲームセンターに通った時に感動した体験を再現したいからだ。

つまり、アーケードに置けるような即物的なゲームということになる。
ルール説明を読まなくても、すぐに遊ぶことができて短時間で終わる。

「はい、今日はこれでおしまい」と言ったら、すぐやめることができる。これが肝心だ。そうでないとずっとそれにかかりっきりになってしまう。

そのためにはどんなゲームシステムがありえるか。
いわば「ゲームのOS」の部分にAIを置き、それを使うとどのような遊びがありえるか。それを考えるのは、なかなか面白い。

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