エッセイ 実際にやってみないことには、どうなるかは分からない
あなたは普段、文章を書く人は頭がいいと思っているでしょうか。
おそらく一般人はそう思っているでしょう。
文章を書くことが実際の経験としてあまり蓄積されていない人にとっては、頭がいいことは文章を書くにあたって必要不可欠な要素のように思えるかもしれません。
しかし自分はそうは思いません。
とはいえ、頭がいいことも確かに、書く上では重要なことです。
なぜなら、ある程度の知性の力が備わっていないことには、うまく物事を言語化することができないからです。
頭がいいからこそ、うまく何かを言葉にすることができるわけです。
だから、知性の力は書く上では不可欠です。
しかし、今まで文章を書いてきた経験から言えば、それとは全く違う要素、つまり、ある種の頭の悪さも必要になってくるのではないかと思われます。
寺田寅彦の随筆に、「科学者とあたま」というエッセイがありますが、このエッセイを読むことによって、何かしらの知的な活動をするにあたって、実は頭の悪さもまた重要になってくることに気が付くでしょう。
しかし、この頭の悪さは、悪い意味での頭の悪さではありません。
これは実は、いい要素なのです。
例えば、このエッセイでは「恋は盲目」という言葉が紹介されていますが、確かに、行動をする際には、ある種の盲目性も必要になってくるように思えます。
自分の場合は、何かに対して徹底的に打ち込む「熱情」にだって、盲目性があると思っています。
例えば、この文章を書いている時だって、自分を盲目にさせるような熱情的なものが働いているのです。
自分は、頭の良さで機転を利かせて、これはこうなってあれはああなると器用に考えながら、普段文章を書いているわけではありません。
確かに、生成AIだったらそのようにして一気に文章を書くことができるのでしょうが、自分は全く、そんな書き方をしません。
自分はとにかく、魂で、言葉を発しています。
これもある種の頭の悪さによるものであって、かなり不器用な側面を持っていると思います。
しかしだからこそ、文章がより一層面白くなるのではないかと思います。
そして、盲目的な熱情によって文章を書くことによって分かったことは、実際に書いてみないことにはどうなるかは分からない、ということです。
頭の良さであれこれと想像したとしても、実際に行動してみれば、その想像はことごとく裏切られます。
文章を書く時にも同様のことが当てはまります。
文章を書くことは言葉によって行われるため、想像でもできるように思えますが、残念ながら、そうはいきません。
やはり、実際に書くという行動を行ってみないことには、どうなるかは分からないのです。
だから、何事に対しても、実際にやってみないことにはどうなるかは分からないという原理が、通用するのではないかと考えています。
