ハーバード×Googleの脳地図が突きつける「人類の無知」
脳のたった1mm³を解析するのに、10年かかった。
2024年5月、Science誌に一本の論文が掲載された。ハーバード大学のJeff Lichtman教授とGoogleのConnectomicsチームによる共同研究。タイトルは「A petavoxel fragment of human cerebral cortex reconstructed at nanoscale resolution」。
米粒の半分ほどのサイズ。そこに約57,000個の細胞、230ミリメートルの血管、1億5,000万のシナプスが詰まっていた。それをナノスケールで3次元再構成したデータ量が、1.4ペタバイト。140万ギガバイト。4K映画にして約14,000本分。
脳全体は約100万mm³ある。同じ解像度で全脳をやろうとすれば、1.4ゼタバイト。全世界の年間データ生成量に匹敵する。
10年かけて記述できたのは、100万分の1。
見えてしまった未知
たった1mm³なのに、予想外の発見が次々と出てきた。
ニューロン同士の接触は、96.5%が単一シナプスで結ばれている。ところが稀に、50以上のシナプスで結ばれたペアが存在した。統計的に偶然とは言えない。意図的な強い接続。高速な神経応答か、重要な記憶のエンコードか。まだわからない。
皮質の深層では、未知のニューロンクラスも見つかった。三角ニューロンの77%が、基底樹状突起の傾きによって鏡像対称の2タイプに分かれる。同じ傾きのニューロンは隣り合う傾向がある。美しい対称性。意味は不明。
さらに、軸索が自分自身で複雑な結び目を作る「軸索渦巻(axon whorls)」という構造。これも機能がわかっていない。
100万分の1を覗いただけで、未知が溢れている。
この論文のデータは全て公開されている。Neuroglancerというブラウザツールで、誰でもこの1mm³の中を自分の目で覗くことができる。
ニューロンの一本一本、シナプスの一つ一つを、画面上で回転させながら辿れる。見てほしい。言葉で書くより、あの密度は目で見た方が早い。
手術室から生まれた地図
この論文で最も印象に残ったのは、サンプルの出どころだった。
てんかん患者の海馬病変にアクセスする手術。その通過経路として切除された側頭皮質の組織。論文にはこう書かれている。脳は他の臓器と違い生検がほとんど行われないため、正常な組織の入手こそが最大の障壁だったと。
人類史上最大の脳地図は、脳外科手術で「通り道」として除去された一片から生まれた。
ただし、てんかん患者の組織である以上、発見された構造が疾患由来なのか正常な脳に共通するものなのかは切り分けられていない。光学顕微鏡レベルでは病理所見は認められなかったが、否定もできない。論文自身がそう書いている。
20ワット
ここで立ち止まる。
人間の脳の消費電力は約20ワット。薄暗い電球一個分。それで57,000個の細胞と1.5億のシナプスが織りなす回路を駆動し、意識を生み、言語を操り、感情を動かしている。
大規模言語モデルの学習には数千台のGPUを何ヶ月も回す。メガワット級の電力を食って、やっと「それらしい文章」を出力する段階。脳がやっていることのごく一部を、何桁も多いエネルギーで近似しているに過ぎない。
この差を埋めるには、半導体の改良程度では追いつかない。計算そのもののパラダイムが変わらないと無理だろう。量子コンピューティングもニューロモーフィックチップも、脳の省エネ性の足元にも及んでいない。
断定できない
以前、シミュレーション仮説について記事を書いた。「現在の物理学では宇宙規模のシミュレーションは不可能」という結論を出した。論理としては間違っていないと今でも思う。
でもこの論文を前にすると、あの結論の「立ち位置」が揺らぐ。
「不可能」という断定は、現在の物理学のフレームワーク内での話だ。その物理学を支えている我々の脳は、自分自身の100万分の1すら理解できていない。道具の仕組みがわからないのに、道具を使って出した結論を「確定」と呼べるのか。
フランコ・ヴァッツァの計算は「同じ物理法則を持つ宇宙が自分自身をシミュレートするのは不可能」と示した。ただ、シミュレーションの実行者が我々と同じ物理法則に縛られる必然性はない。ポッパーの反証可能性も、我々の認知の枠組みの中での作法であって、その枠組みごと作られたものだとしたら、話の階層が変わる。
「不可能」ではなく、今の我々には手が届かない。それだけのことかもしれない。
残り999,999
観測可能な宇宙の星の数は約2,000億。ヒト脳のシナプスは約100兆。桁で言えば脳が上回る。
その宇宙が20ワットで動いている。
意識を生み、言葉を紡ぎ、誰かを愛し、夜空を見上げて宇宙の果てを想う。そしてその宇宙を理解しようとしているのも、同じ20ワットの脳。
100万分の1を覗いて、これだけの未知が溢れた。残り999,999を覗いたとき、何が見えるのか。
ハーバード×Googleチームの次のターゲットは、マウスの海馬全体のマッピングだという。記憶と神経疾患に直結する領域。データ量は今回の約1,000倍が見込まれる。
それでもまだ、マウスの、海馬だけの、話だ。
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