稲田 豊史『本を読めなくなった人たち』
稲田 豊史 著『本を読めなくなった人たち-コスパとテキストメディアをめぐる現在形 』を読みました。
本の帯に、以下のようなイラストと台詞が描かれています。

長い文章はChatGPTが
要約を返してくれるので
本を読む必要はないです
この台詞、どう思いますか?
ほんのちょっぴり何とも言えない「嫌な感じ」をもった人、いるのではないでしょうか?
もしくは逆に、「分かる~! 良い時代になったよね」と心の中で賛同した人もいるかもしれません。
私は正直、「そこまで間違ったことは言ってないかも」と思いました。
私の知人で、本は情報が古くなるから読まないという人がいます。
この知人の主張は、「ChatGPTの要約を読めば読書は不要」論とどこか近いものを感じます。
それに対して私は、「本を読まずに要約で済ますなんて、けしからん!」ということは言いたくありません。
本書の中で触れられていますが、日本人の6割以上が1ヵ月に1冊も読まないそうですね。グラフにするとこんな感じ。

こうしてグラフにしてみると、好んで本を読む人ってやっぱり少ないんだなって、改めて思います。
本を読まないよりは、要約だけでも触れる方がずっとマシです。
要約を入り口にして原著にも興味を持つことだって、珍しくありません。
ここで、最初の台詞に戻ります。
長い文章はChatGPTが
要約を返してくれるので
本を読む必要はないです
この台詞から微かに感じる「嫌な感じ」の正体について考えます。
「私は要約で済ますから、本は読みたくない」という個人的なポリシーの問題であれば、この台詞に不快感はないのです。
不快感の正体は、この台詞が「要約があれば読書は不要」というのを一般論として言いふらしているようにも見える点にあります。
「本が好きな人は読めばいい。自分は要約だけで済ます」
という個人的な意見ではなく、
「これからの時代はChatGPTによって本の必要性が薄まっていく」
というニュアンスが含まれているなら、ちょっと危険かもしれません。
楽しくないなら本を読まなくてもいい?
「楽しくないなら本なんて別に読まなくてもいいでしょ」
「読書は義務ではなく手段」
「楽しいと思う人だけが読書すればいい」
そう思うのが普通だと思います。
でもそう考えることができない人間も中にはいます。
私です。
私は、ちょっと背伸びや無理をしてでも読書はした方がいいという考えをずっと持っていました。
読書は単なる娯楽の手段ではないと。
しかし、そういう風に考えるのはもう時代遅れというか、少なくとも普通ではないのでしょう。
読書がどうしても合わない人はいる。
その価値観を尊重しなければいけない。
私の「多少無理をしてでも読書はした方がいい」という価値観は、個人的なポリシーの話として持っている分には問題ありません。
しかしこれを一般論であるかのように主張すればそれは「嫌な感じ」を他者に与えてしまうことになるでしょう。
それでも私は読書が単なる娯楽でいいのかと考え続けていきたい
読書は娯楽という考えもアリ。それはそれでオッケー。
でも、それだけだと失われてしまう何かがあるのではないだろうか。
私はそれを考え続けていきたいです。
一点不安なのは、「難しい本を読んで教養を深めてる俺カッケー」という、意識高い系になってないか、ということです。
私の場合、難しい本を読んだり、古典作品を読むことそのものが目的になっている時があります。ちょっと背伸びをしている。
noteやXなどに読んでいる本を公開することで、自分を大きく見せようという気持ちがどこかないだろうか。
別にnoteのアカウントを消したり、投稿をやめるつもりはありませんが、己の承認欲求のために本を読んでいないかということは常に気を付けたいです。
本の感想からだいぶ遠ざかってしまいましたが、本書を読んでそんなことを思いました。


