この記事は会員限定です。会員登録すると全てご覧いただけます。
この連載について
これまでどの時代でも、時代に適応した者だけが生き残ってきました。
テクノロジーの急速な進化、経済見通しの不透明さ、地政学リスクの顕在化、そして前例なき気候変動――。これまでの経験や常識が通用しにくいこの時代は、まさに「新しい乱世」と言えるでしょう。
今、企業に求められているのは、混迷の中を生き抜いていくために必要な次の一手を見極める力です。
そのための羅針盤となるのが、経営とビジネスを根本から変革し得るエンタープライズITなのです。
本連載では、アイ・ティ・アールの入谷光浩氏(シニア・アナリスト)がエンタープライズITにまつわるテーマについて、その背景を深掘りしつつ全体像を分かりやすく解説します。「新しい乱世」を生き抜くためのITの羅針盤を、入谷氏とともに探っていきましょう。
クライアントや取材先の企業とAI活用について議論していると、同じ会社のことを語っているはずなのに、まるで別の会社の話のように感じることがあります。経営層は「AIが競争力を高める」「働き方を変える」「会社を変える」と語り、「自社でもかなり活用できている」といった手応えを口にします。
ところが、現場の課長やリーダーの声に耳を傾けると、少し違う景色が見えてきます。「試してはいるが、日々の業務にうまく入らない」「便利さは感じるが、どこまで任せてよいか分からない」「部下に使わせたいが、まだ安心して勧められない」――こんな話が多く出てくるのです。
これはもちろん、経営層が楽観的で、現場が後ろ向きだといった単純な話ではありません。立場が違えば、AIに期待することも違って当然です。ただ、同じ会社でここまで実感がズレるのはなぜか。このズレの中に、AI活用が思うように進まない理由が隠れていると筆者は考えています。
このズレは、決して感覚だけのものではありません。筆者が所属しているアイ・ティ・アール(以下、ITR)の調査では、「AIを有効に活用できている」と答えた割合が、役員クラスは70%、課長クラスは50%、一般従業員だと38%と役職が下がるにつれて低下しています。経営に近いほどAI活用を前向きに捉え、現場に近いほど手応えがなくなる――。この差の背景には何があるのでしょうか。
「会社を変えるAI」と「仕事で使えるAI」
背景を考える上で押さえておきたいのは、経営層と現場ではAIに期待している役割そのものが違うという点です。
経営層は会社を変えるための道具としてAIを見ています。効率化はもちろんですが、それ以上に「新しい価値を生み出せるのではないか」「競争力を高められるのではないか」「意思決定や業務の在り方そのものを変えられるのではないか」といった期待を抱きやすい傾向にあります。加えて、役員層自らが生成AIを使っているケースも多くあります。情報整理や壁打ち、文案のたたき台づくりなどで効果を実感しやすいため、AIが変革をもたらすという前向きな実感を抱きやすいのではないでしょうか。
これに対して、現場が見ているのは足元の実務です。例えば、顧客向けの提案書や問い合わせに対する回答の作成といった業務で「生成された内容は本当に正しいのか」「伝えたいことが書かれているのかどうか」「確認や修正の手間がかえって増えないか」が気になります。課長やリーダー層になると、もう一段視野が広がります。「部下に安心して使わせられるか」「品質にバラつきが出ないか」「チーム全体の生産性向上につながるのか」まで見ています。現場にとって重要なのは今まで以上に業務が効率化し、品質が向上し、最終的に成果に直結することです。
つまり、経営層がAIを「会社変革の起点」として見ているのに対し、現場は「日々の業務をより速く、より良く進めるための道具」として見ています。どちらも正しい視点です。ただ、期待の方向性がそろわないままAI活用を進めると、経営層は「なぜ全社に広がらないのか」と感じ、現場は「思ったほど業務は変わらない」と受け止めやすくなります。こうして、なかなか表に出てこない「静かな期待外れ」が生まれます。
経営層と現場のズレから生まれる「AI疲れ」
問題はその先にあります。経営層の期待が高まるほど、現場との間のズレが拡大します。こうしたズレが積み重なった先にあるのが、筆者が「AI疲れ」と呼ぶ状態です。
AIは、試すだけであればそれほど難しくありません。提案書の構成案を作らせる、問い合わせに対する回答のたたき台を作る、過去資料を横断的に参照して、共通する課題や要点を整理させる――。最近では、もっと広い範囲の作業をAIエージェントに任せたいという期待も高まっています。
ただ、安定的に成果を出すためには、「どの業務にどう組み込むのか」「どこまで任せるのか」「誰がどのように確認するのか」を詰めなければなりません。ここが曖昧(あいまい)なまま期待が膨らむと、現場での確認や修正の負荷ばかりが増大します。
こうした状況が続くと、「話は大きいが、自分たちの仕事はそれほど変わらない」といった「しらけ」や「消耗感」が現場に漂います。残念ながら、こうした雰囲気の企業も出てきました。こうなると、AI活用そのものが伸び悩み始めます。
表向きは利用が続いていても、新しい活用の提案や試行は減り、使い方は無難な範囲にとどまりやすくなります。現場の従業員は業務の一部にしか使わなくなり、課長やリーダー層も、部下への展開やチーム単位での活用に慎重になります。その結果、AIは会社を変える起爆剤ではなく、一部の作業を補助する便利ツールにとどまりやすくなります。
つまり、「AI疲れ」がもたらすのは、AI活用の広がりが停滞し、業務変革や全社的な成果創出につながらなくなる事態です。
「AI疲れ」を防ぐ鍵は、仕事への落とし込みにある
では、「AI疲れ」に陥らないために何が必要でしょうか。今、足りていないのは、AIを活用しようという大きな方針やビジョンではなく、AIを現場の仕事に具体的に組み込む力だと筆者は考えています。
例えば、営業でAIを活用する際は「提案書のどの工程で使うのか」まで落とし込まなければなりません。顧客や業界の情報を集める段階なのか、過去提案を踏まえて構成案を作る段階なのか、提案後の想定Q&Aを準備する段階なのか――。
問い合わせ対応であれば、回答文のたたき台を作るのか、過去事例を検索するのか、一次回答の振り分けに使うのか――。経営の期待を、業務単位で具体化して初めて「どこでAIが役に立つのか」を現場が理解するのです。
逆に、現場側も「使いにくい」「精度が不安だ」で止まっていては前に進みません。例えば、「提案書の構成案は早く完成するが、顧客固有の事情が抜けやすい」「問い合わせに対する回答はたたき台になるが、最終確認に時間がかかる」といった具合に、どこでつまずくのかを具体的に言語化する必要があります。そうしなければ、経営層も、何を改善すべきかがつかめません。
本来、こうした具体化の作業を担うべきなのが、DX(デジタルトランスフォーメーション)推進部門やAI推進部門、IT部門、現場のマネジャー層です。経営層の期待を業務プロセスまで分解し、現場に広がる違和感を改善テーマとして拾い上げる。その往復があって初めて、AI活用は全社方針から現場の成果へとつながるのです。
これは、AI活用がPoC(概念実証)で止まりやすい理由とも重なります。現場の仕事に落とし込めないまま試行だけが増えれば、成果につながらず、次の展開も難しくなるからです。AI活用の成否を分けるのは、トップの熱量そのものではありません。AIを導入する力ではなく、AIを現場の仕事に組み込み、PoC止まりにせず定着させる力が問われています。
今必要なのは、AI活用への熱量を高めることではない
AI活用が進まない理由を、現場の消極的な姿勢やリテラシー不足だけで説明しようとするのは適切ではありません。経営層はAIを会社変革の起点として見ており、現場は業務を効率化し、品質を高め、成果につなげるための道具として見ています。どちらも正しいからこそ、その期待をどう接続するかが重要です。問題は、それが十分に具体化されていないことにあります。
だからこそ今、必要なのは、AI活用への熱量をさらに高めることではなく、経営の期待を業務の単位まで具体化することです。経営は何を変えたいのかを示し、推進部門やマネジャーは、それをどの業務のどの工程でどう使うのかに落とし込む。現場は、AIがどこで役立ち、どこでつまずくのかを具体的に返す――。この往復が成立して初めて、AI活用はPoCや一部の作業における利用という段階を突破し、全社的な価値創出につながります。
AIで未来を語ることは大切です。しかし、企業がAIで価値を生み出すためには、未来の話を今日の仕事に接続できたときです。AI活用の成否は、業務単位での具体化と、経営層と現場との対話を積み重ねられるかどうかで決まる。筆者はそう考えています。
筆者紹介:入谷光浩(アイ・ティ・アール 取締役 / プリンシパル・アナリスト)
IT業界のアナリストとして20年以上の経験を有する。グローバルITリサーチ・コンサルティング会社において15年間アナリストとして従事、クラウドサービスとソフトウェアに関する市場調査責任者を務め、ベンダーやユーザー企業に対する多数のコンサルティングにも従事した。また、複数の外資系ITベンダーにおいて、事業戦略の推進、新規事業計画の立案、競合分析に携わった経験を有する。2023年よりITRのアナリストとして、クラウド・コンピューティング、ITインフラストラクチャ、システム運用管理、開発プラットフォーム、セキュリティ、サステナビリティ情報管理の領域において、市場・技術動向に関する調査とレポートの執筆、ユーザー企業に対するアドバイザリーとコンサルティング、ベンダーのビジネス・製品戦略支援を行っている。イベントやセミナーでの講演、メディアへの記事寄稿の実績多数。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.



