AIは観察眼と試行錯誤と能力育成を奪う
スケッチしてみたらよくわかる。
https://x.com/shibushuta/status/2046191119667802418
わかっているつもりのものが描けやしない。スケッチとは言えないけども、ドラえもんなんて簡単に描けそうだけど、見本なしに描こうとすると、青いとこと白いとこの境界線がどこに走っているのかわからない人が多い。描いてみて初めて、「境界線は目ん玉の真ん中貫いているのか」ってわかる。
スケッチを取るといいのは、「観察願」が上がること。たとえば見本を見ずに鶏を描くと、トサカがどんな位置でどんな形かいい加減になるし、足の形もデタラメになる。いざ現物を見ながらスケッチを取ると、「あ、くちばしの上から後頭部にかけてトサカは生えているのか」とか、「え?指って後ろにもついているの?」と気がつく。スケッチを取って初めて気がつく特徴がバンバン出てくる。ただ漫然と「見てるだけ」では気づかないことに、どんどん気がつく。これは、スケッチを取るという行為が「能動的」だからだと思う。
テレビの前に赤ちゃんを置いておくと、映像と音声が目まぐるしく変わるから、赤ちゃんはおとなしくジッと見てくれる。で、テレビにお守りをしてもらう親御さんがいるのだけれど、これを長時間やってしまうと言葉の発達が遅れる。言葉は、親からの呼びかけだけでなく、親に分かってもらおうと能動的に声掛けして初めて発達するもの。けれど、テレビは一方的に映像と音声を投げかけるだけで、赤ちゃんの呼びかけには反応してくれない。赤ちゃんの能動性に反応してくれるものがないと、赤ちゃんは言葉を理解することも使いこなすこともできなくなる。言葉の習得には、「能動性」が極めて重要。
言葉を能動的に発そうとして初めて、「お母さんにわかってもらえなかった!」という悔しさ、「今度は伝わった!」という喜びを味わえる。そして、どうしたらうまく伝わり、伝わらないことがあるのかを学ぶ。スケッチと同じで、能動的に動くことで初めて「観察眼」が起動し、何をどうすればよいのかの試行錯誤が生まれ、それが脳を刺激し、能力を獲得することにつながっていく。
AIに頼ることは、この能動性の大部分を奪うことにつながってしまう。生成AIは確かに人間が問いかけないことには答えないから、ごく一部に能動性が確保されているけれど、あとはAIがみんなやってくれてしまう。気の利いた執事がわがまま坊主の気持ちを汲んでみんなやってあげてしまうようなもので、その子はダメ人間に育ってしまう確率がかなり上がってしまう。
私の塾に、高校生にもなって分数もできない子が来た。でもその子にとって深刻なのは、そこではなかった。現実逃避。何をするにも、わずかな時間で魂を飛ばしてしまい、心の中のお花畑をさまよってしまうこと。どんな課題をさせようにも、魂がここになく、目の前の課題にもうつろな目をして見ているようで見ていないのでは、能力を高めることなどできやしない。
なんでこんなにも「魂飛ばし」が起きるのか、両親に来てもらって幼いころの成育歴を尋ねたところ、おばあちゃんがこの子を溺愛して、着替えも食事もみんなおばあちゃんがやってあげ、5歳になっても口元までスプーンで食事を与える始末で、何もできない子になってしまったという。
どうやらあらゆる世話をおばあちゃんがやってしまうことで、その子はこの世に能動的に働きかけ、その手ごたえをつかむことさえ許されなかったために、魂を心のお花畑に逃がすことで、かろうじて自分の能動性を架空の世界で生き延びさせていたらしい。でも現実の世界ではすっかり能動性を失い、能力が育たずに来てしまっていた。
その子の能動性をどう取り戻したかは、過去にまとめたから繰り返さない。
https://note.com/shinshinohara/n/n86eb8439c2f2
ともかく、人間は「能動的」に取り組まないと、能力が育たない。かつ、「うまくいかない」という体験が大切。スケッチだって、最初から画家レベルにうまく描けるはずがない。バランスが取れないし、現実からかけ離れた表現しかできないことに苦しむだろう。でもそれが大切。現実の肌感を鉛筆書きで表現することはこんなにも難しい、というか、不可能なのか、ということを実感することが、現実を見る「観察願」に磨きをかけてくれる。
言葉も同じ。自分で言葉を紡ぎ、それでも相手に思うように伝わらない、そもそも自分の思いを自分の言葉がうまく乗せられていない、というもどかしさがあって初めて、「この思いをうまく表現するにはどうしたらよいのだろう?」「相手に伝わる言葉とは、どうつむげばよいのだろう?」という苦悩が発生し、その苦悩があるからこそ話の上手な人の話しぶりをよく観察し、そのテクを盗んでは自分でも試してみる、という試行錯誤が発生する。その試行錯誤が言葉を鍛えてくれる。「うまくいかない」という体験が、観察眼と試行錯誤を呼び覚ましてくれ、能力を育ててくれる。
AIは、人間を甘やかしてしまう。脳も身体も鍛えねばならない時代には、むしろAIの利用は避けたほうがよいと思う。特に教育場面では、AIを使わないほうが結果的に若者の能力を育て、AIを使いこなす力を獲得できると思う。
介護・看護の技術であるユマニチュードでは、患者をダメにする2大要素として「ベッド」と「何もかもやってあげる看護師」を指摘する。この二つは、「あなた(患者)は何もしなくていいの、ただ寝ていれば」と、患者から能動性を奪ってしまい、特に高齢者の場合、いろんな機能を失わせてしまいかねない。いわゆるフレイル。身体を能動的に使う機会を奪われることで、使わない部分がどんどん衰える「廃用症候群」に陥ってしまう。
AIに早くから頼ることは、若者のフレイル、廃用症候群を増やすようなもの。AIを使いこなそうとして、かえってAIによって弱体化させられた若者を増やすようなもの。私は、若い間は「うまくいかない!」という悔しさを味わい、「ではどうしたらいいのか?」という問いを抱き、試行錯誤することが大切だと思う。その工夫を楽しむことが、若者の能力を高め、結果としてAIを使いこなす力へとつながるのだと思う。AIを使いこなしたければ、それに依存せずに自らを鍛えることが大切。
こうなることは、教育関係者ならほぼ予測できていたことだけれど、現実に問題が起きてこないとなかなか分かってもらえない面がある。でもいよいよ問題として表れてきた様子。そろそろ、見直しの時期に入ってきたのではないか、と思う。





