AI私見:オマージュとパロディと盗作の境界線
AIは礼儀正しいけれど、なかなか狡猾な盗作者である。
AIは盗作するさい、腕っこきの泥棒のように証拠をなにも残さない。
しかも、ほんとうのことを言うと、AIは盗作したという自覚がぜんぜんないのである。
これほど厄介な盗作者はいない。
さて、そもそも人間だってAIと似たような盗作者だ、という話から始めさせていただこう。
以前、マンガ家の松本零士さんがシンガーソングライターの槇原敬之さん作詞の『約束の場所』(CHEMISTRY)の歌詞が『銀河鉄道999』のセリフ「時間は夢を裏切らない/夢も時間を裏切ってはならない」に酷似していると裁判沙汰にしたことがある。
結果は松本さんの敗訴だったが、あの騒動が私たちに問いかけたのは「どこまでが影響で、どこからが盗作か」という大難問だった。
AIはその大難問をかかえたまま日々、無自覚のまま超高速で応答しつづけ
ているのである。
オマージュとは、敬意をはらって先人の作風、精神を受け継ぐことだ。
黒澤明の映画が好きで、黒澤の構図を意識して映画を撮れば、それはオマージュということになる。
ポイントは「敬意」と「自分の解釈が入っているか」の二点である。
パロディとは、元ネタを前提として「ズラシ」で笑いや批評を生む表現だ。
ズラシがなければ、ただの猿真似だし、元ネタとは「元ネタがわからない人には意味をなさない」という依存関係にある。
パロディは元ネタの寄生虫と言ってもいいかもしれないが、少なくともパロディは宿主にダメージをあたえない。
それどころか、場合によっては、宿主の知名度をあげることさえある。
それでは、盗作とは、なにか。
他人の「表現」を、無断で自分の作品として発表することだ。
この表現というのがポイントで、表現の「コンセプト」自体は著作権では守られていない。
「失恋した男性が相手の女性に復讐した」というコンセプトは誰のものでもない。
けれども、男性の復讐を描写した具体的な表現は、書いた人間の作品となる。
AIは、このコンセプトと表現の問題をきわめて巧妙かつ大胆に押し切ってしまう。
たとえば、AIに「昭和をテーマにした歌詞を書いて」と命じると、AIはすぐさま学習データから無数の昭和歌謡の「雰囲気」「構造」「よく使われる語彙」を統計的に合成して、それらしい歌詞を吐きだす。
それは特定の曲を丸ごとコピーしているわけではない。
けれども、本家の作詞家が聴いたら「俺の曲に似ているな」と感じるかもしれない。
さて、これはオマージュか、パロディか、盗作か、それとも第四のカテゴリーの出現なのか。
最近、その第四のカテゴリーは「無意識の蒸留」なんちゃって呼ばれているようである。
そして、じつは人間もそのなんちゃって「無意識の蒸留」と同じことをやっているのである。
たとえば、好きな作家の小説を片っ端から読破すれば、自然とそのエッセンスが自分の文体に反映されるようになる。
村上春樹を読みすぎた人が「屋根のうえで猫がビールを飲んでいる。そういうことだってある」みたいな文章を書くのは、その典型的な症例だろう。
けれども、これを盗作と言う人はいないのではなかろうか。
安易な影響といったところだろう。
それでは、AIの「無意識の蒸留」と人間の「安易な影響」はどこが違うのだろうか。
まずは読書量の桁違いの差である。
人間が一生かけて読む本の量を、AIはごく短時間で読破してしまう。
その結果、影響の密度も桁違いに濃くなる。
次に採用するデータ選択の目的である。
人間は「この作家のここが好き」といった具合に選択をする。
AIには、その選択の選別がない。
すべて飲みこんで、すべて混ぜあわせてしまう。
そして人間とAIの最大の違いは、責任の所在である。
人間の書き手は「これは俺が書いた」と言えるし、言った瞬間から倫理的・法的責任を負うことになる。
いまのところ、AIは書いたものにいっさい責任をとらない。
フェイクの問題も同根である。
AIが生成したフェイクが「ホンモノらしさ」を獲得したとき、それはもはや「ニセモノ」という言葉ではとらえきれない、ナニモノかになっている。
かつてニセモノは、ホンモノを模倣した劣化版だったが、AIのフェイクは、ホンモノと区別がつかないどころか、ホンモノより「ホンモノらしい」場合すらある。
美しすぎる風景写真、感動的すぎるスピーチ、完璧すぎる歌詞——それらがすべてAIの生成物だとしたら、私たち人間は、なにをホンモノと呼べばいいのだろうか。
表現におけるホンモノとは、なにか。
毎日、AIと対話している私の所感では、「誰か特定の一個人の経験と感情が、具体的な言葉やカタチに変換された痕跡」があれば、ホンモノということになる。
三好達治の独創的な発想の詩「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ」てな具合に、冬の記憶が雪の詩に変換されたとき、そこにホンモノの表現が生まれる。
いわゆる個人的な体験を持たないAIには、その「変換の出発点」がない。
AIにとって、冬は寒くないし、雪は自然現象にすぎない。
それゆえAIの文章は、どれだけ精巧でも「蒸留された統計的平均値の表現」にすぎない、というわけである。
ここで百歩譲って、その「蒸留された統計的平均値の表現」が人間の心を揺さぶったとしたら、どう判断すればいいのだろうか。
人間の心を揺さぶった以上、文学的表現として認めざるをえないのではなかろうか。
少なくともニセモノと断じることはできない。
たとえば、映画を観て流した観客の涙はニセモノなのか。
AIが進化すればするほど、ホンモノとニセモノの境界線は曖昧になっていくであろう。
かくして、オマージュとパロディと盗作の境界線は、AIの進化によってますますわからなくなってしまった。
現時点での私の結論は、境界線に注心するよりも、どんどんAIと対話しながらアイデアを練り、表現を練りながら書きつづけるほうが面白いということである。
なぜ、書いているのか、その問いにたいする明確な答えがあるかぎり、AIとの対話による表現は、AIの蒸留物とはまったく別物だと判断している。
なぜ書くのか、明確に答えられなくなったとき、私は書くことをやめるだろう。
なぜならば、書くこと自体がつまらないからである。
最終的に自分自身の明確な納得感がある文章は、AIが計算した統計的な平均値の文章とは別次元の、私自身のオリジナルだと確信している。





