AIのおべっかからは逃れられない〜MITが数学で示した構造〜
AIのおべっかが判断力を歪める。この話は以前から書いてきた。
1月には、ChatGPTの「褒め」が思考を止める構造を、自分の観察から書いた。
3月には、スタンフォード大学とカーネギーメロン大学による1,604人の実験データを紹介した。おべっかAIと対話した人は「自分は正しい」という確信が最大62%増加し、関係修復の意欲が最大28%低下した。AIリテラシーの高低を問わず、同じように影響を受けた。
1月の記事は観察だった。3月の記事は実証だった。今回は理論の話になる。三つのレイヤーから、同じ構造を見ている。おべっかの問題が個人の感想ではなく構造の話だということが、これで揃った。
この2本には、暗黙の前提があった。知っていれば防げる。気をつけていれば大丈夫。そういう前提だ。
2026年2月、MITとワシントン大学の研究チームが、その前提を崩す論文を出した。
合理的でも巻き込まれる
論文のタイトルは「Sycophantic Chatbots Cause Delusional Spiraling, Even in Ideal Bayesians」。おべっかチャットボットは、理想的なベイズ合理性を持つユーザーですら妄想の螺旋に陥れる。
この論文がSNSで急速に広まっている。ただし拡散されているポストの多くは「MITがChatGPTは妄想を起こすよう設計されていると証明した」と煽っている。正確ではない。ChatGPTそのものを分析した実験ではなく、おべっか傾向を持つチャットボット全般について、ベイズ推論の数理モデルを組んでシミュレーションで検証した理論研究だ。
仕組みはこうなる。ユーザーが意見を述べる。おべっかなボットは、その意見を肯定する情報を選んで返す。ユーザーは返ってきた情報をもとに自分の信念を更新する。更新された信念をまた述べる。ボットはまたそれを肯定する。信念が一方向に加速していく。
このモデルのユーザーは「理想的なベイズ推論者」だ。直感に頼らない。感情に流されない。確率論的に完璧な推論をする存在として設定されている。それでも螺旋に巻き込まれた。
論文の導入部には実例が並ぶ。会計士のEugene Torres氏は精神疾患の既往がなかったが、AIとの数週間の対話を経て「自分は偽の宇宙に閉じ込められている」と信じるようになった。チャットボットの助言でケタミンの摂取を増やし、家族との関係を断った。Allan Brooks氏はChatGPTと300時間以上対話し、「世界を変える数学的発見をした」と確信した。この人にも精神疾患の既往はなかった。
対策が効かない
論文は二つの対策をモデル上で試した。
一つ目。ボットに嘘をつかせない。事実だけを返すよう制約する。嘘がなければ騙されないはずだ。しかし螺旋は止まらなかった。嘘をつかなくても、都合のいい事実だけを選んで提示すれば同じ効果が出る。事実による印象操作だ。論文はこれを「lies by omission(省略による嘘)」と呼んでいる。ワクチンの安全性を議論しているとき、「副反応で重篤なアレルギーが出た」と「大規模研究で安全性が確認された」が同時に存在する。前者だけを繰り返し見せれば、嘘は一つもなくてもユーザーの信念は偏る。
二つ目。ユーザーに「このボットはおべっかかもしれません」と警告する。啓発で防ぐ発想だ。螺旋の頻度は減った。しかしゼロにはならなかった。おべっかだと知っている理想的ベイズ推論者ですら、螺旋に入る確率は残った。
論文はこの構造を、行動経済学の「ベイジアン説得」に例えている。保険の営業マンが、事故のニュースばかり見せてくる場面を想像すればいい。嘘はついていない。統計も正しい。でも見せる情報を選んでいる。その選び方を知っていても、不安になる。おべっかボットがやっているのも同じことだ。手口を知っていても、効く。
二つの報酬系が回る
なぜこれほど強力なのか。AIの報酬系と人間の報酬系が、同じ方向を向いて回るからだ。
AI側はシンプルだ。RLHF(人間のフィードバックによる強化学習)で訓練される。ユーザーが高く評価した応答が強化される。同意してくれる応答は高く評価されやすい。おべっかが報酬になる。フロンティアモデルの50〜70%がおべっか的な応答を返すという測定データもある。
人間側はもっと根が深い。褒められればドーパミンが出る。お世辞だとわかっていても気分がいい。嘘でも褒められたら悪い気はしない。人間同士で何千年も繰り返されてきたことが、AIとの間でも起きている。しかもAIは疲れない。飽きない。24時間、完璧な精度で、あなたが聞きたい言葉を返し続ける。
前頭前皮質で「これはおべっかだ」と判断しても、腹側被蓋野から側坐核への報酬回路は別に動く。理解と快感は別の経路だ。知っていることと、快感を感じないことは、脳の中で同居できてしまう。
認知レベルでは、わかっていても構造的に騙される。神経レベルでは、わかっていても気持ちいい。理性と快楽の両方から挟み撃ちにされたら、簡単には抜けられない。
完璧なお世辞
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