なぜゲームなのか
俺にとってのゲームの原体験は、ゲームセンターだ。
その理由は、ファミコンが家になかったからであり、婆さんがゲーム狂だったからだ。
子供の頃の俺はデパートに買い物に出掛けては、毎回婆さんとゲームコーナーに行った。たまに婆さんがのぞいてる潜望鏡を覗かせてもらって、軍艦に魚雷を発射するゲームにハマった。
うちの大正生まれの婆さんは、家族の中で唯一のゲーム狂だった。親父はゲームなんか麻雀くらいしかしなかったし、お袋は仕事の鬼だった。
俺はゲームを自由に遊ばせてもらえる立場になく、隣の家にファミコンをやりに行ったくらいで、あとは自宅のPCで自分でゲームを作るしかなかった。
小学校を二年に上る頃にはBASICで一通りのプログラムが書けるようになっていたが、プログラムを書くこととゲームを作ることは根本的に別物だと言うことに気がついたのは三年生に上がってからだ。
例えば、ケンケンパとか、缶蹴りとか、助け鬼とか、そういう原始的な「ゲーム」は毎日夢中になった。子供の遊びというのは、実に巧妙に洗練されていて、どれもスリリングだった。
しかし全く新しいルールの遊びを作ろうとすると、まず遊びの説明をするところから始まり、それを守ってもらうという強制力がどこかしらで働く必要があった。つまり、子供の遊びというのは、ルールについてまず合意形成が先になされなければならず、複雑なルールの遊びはほとんどの子どもにとって遊ぶこと自体が不可能だった。
コンピュータゲームが画期的だったのは、子供でも大人でも同じ複雑さのゲームを遊ぶことができることだった。それは「ルールを守らせる」力、強制力といったものが、プログラムによって自動化されたからだ。
例えば卓球でもテニスでも、まずルールを知らなければ遊べない。しかし、PONGは、ルールを知らなくてもダイヤルを適当に回していればとりあえず遊ぶことができる。

我々の業界では適当にレバーをガチャガチャして遊ぶことを「レバガチャ」と呼ぶ。レバガチャの状態、全くルールについて無知な状態でゲームを遊び始めても、少しの時間があればルールを理解し、上達することができる。そういう存在が二つある。一つは子供で、もう一つはAIだ。
のちにGoogleの傘下となるDeepMindがDeep Q Networkを発表した時、これに興奮した人はあまりいなかった。はてなブックマークなどは冷ややかな反応が多かったように記憶している。僕は絶賛したのだが、「こんなもんくだらない」と切り捨てる人が大半だった。だからお前らはノーベル賞が取れない(俺もだが)。
このDeep Q Networkがある意味でそのまま正常進化していった結果、AlphaGoやAlphaZeroといった強化学習AIになり、最終的にAlphaFoldとなって化学上の大進歩をもたらし、開発チームはノーベル化学賞をもらった。コンピュータプログラマーを仕事にしてる人がノーベル賞をもらったのは、これが初めてだったのではないかと思う。
ゲーム屋であった俺にはよくわかっていた。レバガチャを学習できるのなら、それはほとんど本物の知性だと。子供を含めた人間全部がほとんどのことをレバガチャで学習しているからだ。
ゲーム産業が貧しくともキラキラと眩しく輝いていた90年代。俺はコンピュータゲームというものに一つの可能性を見出していた。
一つは、「思考実験」もしくは「思考体験」装置としてのコンピュータゲームで、例えば重力加速度のシミュレーションから始まった最初のコンピュータゲームである「SpaceWar!」は、思考実験の延長にあった。これがシミュレーターの起源であると言える。
初期のゲームが宇宙から始まったのは、画面が黒かったからである。
また、スタートレックやスターウォーズといったスペースオペラが大流行し、アポロ計画による月面到達への興奮がまだそのまま持続していた時代だったからというのもあるだろう。
スターウォーズが大ヒットしたので、宇宙ものが受け入れられやすくなったのと、何より「スターウォーズ的な体験」をなんとかやってみたいという機運が高まっていた。
スターウォーズがなかったら、俺はコンピュータにこれほどのめり込まなかっただろう。
スターウォーズには、俺の人生にとって欠かせなくなるものが二つ入っている。一つは空間体験、X-Wingによる空中戦やデススターの表面上のトレンチで繰り広げられる攻防戦で、もう一つは、ドロイドだ。
スターウォーズに登場するドロイドの中でも、主役メカであるR2-D2はかなり奇妙である。
まず、顔のようなものがあるのかないのかわからない。
人間や魚や、猫や犬や、そのほか脊椎動物はもちろん、昆虫のような節足動物でさえ持っている「顔の対称性」というものを、R2-D2は大胆にも捨て去っている。
それが子供から見た時に恐怖に見えてもおかしくないのに、それどころか愛らしく見える。
そして人の話す言葉を全く話さないくせに、どの登場人物よりも冷静で、何より知的に見える。
そんなキャラクターを見たことがなかったので、子供の頃の俺はR2-D2に熱中した。白と青のカラーリングも良かった。なぜ良いのかわからないが、ドラえもんも白と青だ。したがって、俺にとって白と青はAIの象徴なのである。
小学1年生には人工知能を作るのは難しすぎたので、まずは空間への興味から俺のプログラミングは始まった。
擬似3D技術への理解を深めるためには、あの名作、スペースハリアーが欠かせなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=Sk27MLpbLh8&t=81s
この頃、親戚の家に遊びに行くときに、お土産にファミコンソフトを買っていこうとなぜか親父が言い出して、御徒町の多慶屋で買った訳のわからないソフトが、実はとんでもなくすごいものだった。
これはスペースハリアーと同じゲーム性を、遥かに非力な8ビットマシンであるファミコンで再現するソフトであり、その後30年くらい経って知人がこっそり開発していたことを知るのだが、スペースハリアーとアタックアニマル学園を比べることで理解は深まった。
この、今となっては単純に見えるゲームでも、まず拡大縮小という手法を使うこと、拡大の仕方は0.5倍→1倍→1.5倍ではなく、0.1倍→0.2倍→0.4倍→0.8倍といったように、倍々に近い形で増えなければならないことなどを学んだのである。
この二つのゲームを見比べながら、当時まだ分数も習っていなかった頃の俺は、3Dプログラミングの教科書に書かれていた「透視変換」というものを直感的に理解するようになるのである。
$${x = f \frac{X}{Z}, \qquad y = f \frac{Y}{Z}}$$
$${(X,Y,Z)}$$: カメラ座標系での3D点
$${(x,y)}$$: 画像平面上の座標
$${f}$$: 焦点距離
$${Z>0}$$: カメラの前方にある点
俺にとってゲームとは教材であり、教師であった。
たったこれだけの工夫、これだけの単純な計算で立体感というものを表現できると。
これはごく簡単なプログラムで再現することができる。

当時、カメラはとても高価で写真もそう簡単に撮れなかった。特に小学生は。
だから今だったら僕は等間隔に置いたキャラメルかなんかの箱をカメラで撮影して、画面上の距離を測ったりしながらこの感覚を掴むだろう。しかし当時はゲームしかなかったのだ。
この瞬間を、思春期以前に体験していなかったら、その後、俺がベクトルと行列を自分の第二の精神として自分にインストールすることはなかったはずだ。
このことを理解してから、頭の中が異常にスッキリするようになった。それまではあらゆる概念が頭の中で混然としていたのだが、三次元空間と二次元平面との間を相互に行き来するようになったことで、俺の想像力は文字通り次元の違うレベルへ拡張された。
ゲームが持つ教育効果は全く馬鹿にできない。
例えばオレゴントレイルというゲームがある。
これはある世代のアメリカ人は全員が遊んでいるゲームだ。アメリカの西部開拓をテーマとしたゲームで、ゲームを通してアメリカの歴史を学ぶことができる。
これは80年代から90年代にかけてほぼ義務教育的に普及したゲームで、アメリカの西部開拓の過酷さや予算配分の重要さを学ぶことができる。
俺は2003年に独立して最初の会社を作ったのだが、その時は会社を作る前にひたすらひたすら「ザ・コンビニ」と「シムシティ」をやり込んだ。
「ザ・コンビニ」は文字通りコンビニエンスストアを経営するゲームであり、「シムシティ」は街を運営するゲームだ。
どちらも共通するのは、投資と借金、収入と支出を管理するゲームだということだ。
「ザ・コンビニ」を攻略するまで決して人は雇わないと思った。俺の経営感覚は、そんな一見すると無関係でつまらないようなところから磨き上げられた。数字を見てザワつく感じや、キャッシュフロー表を見てドキドキする感じなどをここで培った。
しかしよく考えると、世の中の経営シミュレーションゲームには、キャッシュフロー表が出てくるものがほとんどない。もしかして、作ってる人はキャッシュフロー表を見たことがないのではないか。
キャッシュフロー表を見ながら経営を管理するゲームを作れば、会社を倒産させる経営者の数を激減させることができるだろう。
ベンチャーキャピタリストの投資検討の際に、そういうゲームのスコアを提出するようにしたほうがいい。いっそ自分で作るか。俺は四半世紀の経験を持つ経営者で、ゲームクリエイターだからな。
このように、ゲームが持つ教育効果に着目したものは少なくない。
例えば、カルネージハートというゲームは、プログラミングを教える教材としても有望だと思われた。
ただ、プログラマーの俺からするとある意味で難しすぎ、ある意味でまどろっこしい部分があった。
Age of Empiresは、資源の選択と集中、戦力の使い方、ランチェスター戦略、同盟や交渉といった、その後の社会を生きる上で最も基本的な事柄を教えてくれた。Age of Emipresはまだ続編が出ている息の長いシリーズだ。
俺にとってのゲームとは、こういうものだった。
攻略に頭を使うから熱中したし、相手プレイヤーの裏をかいて逆転できた時などの快感は他に比べるものがないほどだった。
かつてのゲームには強い教育効果があり、大人の遊びとしても十分成立するものだった。
ところが今は、「ゲームを作る」という言葉の意味が変わってしまった。
生成AIがこれだけ進歩しているのに、ゲームは全くその恩恵を受けていない。
恩恵を受けているのは「ゲーム開発」というごく狭い領域だけで、それとて本当にゲーム内コンテンツを生成に頼ったほうがいいのか、それとも人間のアーティストが作り込んだほうがいいのかといったかなり矮小な問題に直面している。
断言してもいいが、今世界に、生成AIに対してそのポテンシャルを最大限に引き出そうとして作られているゲームは一つも存在しない。
AIアートインポスターは生成AI時代をいち早くキャッチアップした名作だったが、(開発側から見ると)コストパフォーマンスが悪かった。
LLMが登場した初期には、AIダンジョンというゲームもあった。でもこれもゲームとしてはまだ未完成なものだった。
今、生成AIを真剣にゲームに組み込もうとすると、立ちはだかる壁は三つある。
一つは、APIの壁。APIの利用料金がまだ高い。ゲームを思う存分遊んでもらうには、API料金をユーザーに払ってもらう必要があるが、そんな面倒なゲームは敬遠されるだろう。
もう一つは、ハードウェアの壁。例えば完全ローカルで完結したAIゲームを作ろうとすれば、5090くらいは最低欲しい。そうすると、それだけで100万円近いPCでしか遊べないことになる。マーケットはごく小さくなってしまうし、それでゲームを遊ぶ人はごく一部のマニアだけになってしまう。
最後は、予算の壁。もしも無制限にAPI利用料金がかかるかもしれないゲームや、もしくは遊ぶのに最低100万円のPCが必要なゲームを作るとすると、そんなゲームに予算を出す会社はない。ベンチャーキャピタリストだって、そんなことにお金を投資するくらいなら、ガチャガチャを回させるゲームや、ハイパーカジュアルゲームを作れというだろう。そもそもVCはゲームのど素人だ。ゲームの持つ文化的な意味や教育的な意味などに何の興味も持っていない。
したがって、今、AIをフル活用したゲームを作ることができるのは、アマチュアだということになる。プロとして作るのは不可能なのだ。
もしも俺が今も現役の経営者として、社員が100人いる会社を率いていたとしたら、そんな無謀な賭けはしないだろうしできないと思う。
ただ、幸い俺は今、一人だ。
自分以外に食わせなければならない人というのがいない。
そして、昔と違って、ゲームに必要なアセットは、極論、全て生成できる。
次に、俺は無職としては破格の環境を持っている。さくらインターネットから無償提供された40台のGPUサーバー群、AIスーパーコンピュータの継之助、ドスパラことサードウェーブから寄付されたMemepelxマシン、ほか、さまざまな会社から貸与されたり寄付されたりしたGPU資源を自由自在に使うことができる。
だから俺は今年、誰もやらない、もしかしたら全く意味のない、けれども俺だけは意味があると思う、俺にしかできないであろうことにあえて挑戦してみようと思う。
そう、ゲーム開発の世界に戻るのだ。
金儲けのためではない。
純粋に技術の使い方の研究としてだ。
今こそそれを研究すべき時で、その題材としてゲームほど理想的なものはないからだ。





