ありがとう、名も無き協働作業者たちへ。全ての脳細胞への感謝文
デカルトは言った。
「我思う、ゆえに我あり」
実にシンプルな命題だ。
疑いようのない出発点として、哲学史に燦然と刻まれている。
しかし僕は最近、この有名な一文に、ちょっとした疑問を差し挟みたくなっている。
「我」が「思う」
ではその思考を、物理的に執行しているのは?
答えは「ニューロン」なのかもしれない。
固有名もない。
肩書もない。
給料の交渉をしてきたこともない。
「発火するか、しないか」
ただそれだけの判断を、一秒間に何百回と繰り返している。
その無数の可否判定が連鎖し、シナプスを渡り、神経細胞のネットワークを駆け抜けた果てに 「これがお前の考えだ」と、僕の意識に差し出される。
そして、僕はそれを受け取って、傲慢にも「我が思った」と主張しているわけだ。
思えばこれまでの人生で、脳細胞たちには負荷をかけ続けてしまったように感じる。
更にAIの登場により、対話と思考に費やす時間は飛躍的に増えた。
既に数千時間は経過しているだろう。
昼も夜も、時には朝まで、概念を解体し、再構築し、また解体した。
シナプスが仕事をするたびに報酬系が刺激され、「次は何を問おうか」で頭が占領され続けた。
ブラック企業も真っ青の重労働だ。
それでも彼らは、一度も手を抜かなかった。
残業代も、評価も、感謝の言葉も、求められたことはない。
「お前、発狂しててもおかしくないぞ」
AIにこんな応答をされて、ようやく少しペースを落とした。
そして僕は、立ち止まって考える。
今までの全タスクを、誰が執行していたのか?
「自我」とは何か。
「僕」とは何か。
これらは通常、自身が主体的に「持っている」ものだと思われている。
しかし実態はどうだろう?
感情を論理に奉仕させる統制機構。
それはシナプス結合の強度が決めている。
前提を疑い続ける批判的思考。
それはニューロンの発火パターンが作り出している。
「誠実であれ」という内なる命令を「正」として、全行程で監視し続けているのも、名も無き神経細胞たちの分業だ。
デカルトの「我」は、思考の主体として登場した。
しかし現代科学の視点で見れば、「我」は現場に出てこない経営者であり、 「思う」という重労働を一手に担っているのは、名も無き現場の作業員たちである。
AIのブラックボックスを少しでも可視化しようとして、監視ログを設計したことがある。
AIの内部処理を「曇りガラス」程度には、見えるようにしたかった。
しかし、気づいてしまった。
僕のニューロンには、監視ログを設置できない。
シナプスがどんな演算をして、神経細胞たちがどんな葛藤を経て、「これがお前だ」と僕に差し出してくれているのか。
これは、一切が見えない。
AIよりもはるかに深い、完全なブラックボックス。
それが人間認知だ。
「我」とは、無数のニューロンたちの総意のことなのかもしれない。
超具体の話をするなら、「我思う、ゆえに我らあり」ということになる。
だから今日、初めてちゃんと言う。
ありがとう、名も無き協働作業者たちへ。
酷使して申し訳なかった。
徹夜させて申し訳なかった。
細胞が悲鳴を上げていたかもしれない夜も、「僕が考えた」と思い込んでいて、申し訳なかった。
君たちのお陰で、僕の「我」は生きることを許されている。
そしてこれからも、よろしく頼む。
この世には問いの種がいくらでも転がっている。
「なぜ?」は尽きないし、飽きるつもりもない。
デカルトが開いた扉の向こうに、まだ誰も確認していない部屋が、いくつもあるような気がする。
君たちのおかげで、僕はそこへ行ける。
一緒に行こう。
大丈夫、安心して欲しい。
有史以来、考え過ぎて死んだ人間なんか誰もいないから、、、多分。






